僕の3.11の記憶

2年前はまだお台場で単身赴任していた頃でした。
その日は金曜日で仕事も落ち着いていたので、ちょうど帰省の予定で午後半休を取って昼から車で自宅(三重)に帰っている途中でした。
富士さんを通り過ぎたあたりでかみさんからメールが...、「東北で地震、お台場で火事、大丈夫?」と。

???

東北で地震なのにお台場で火事???


最初は意味が分からなかった。

少し考えて「いったいどんな大きな地震なんだ!」と、テレビを付けてみると本当にとてつもない地震が起きていることを初めて知った。(車に乗っていたので、地震自体には全く気がついていませんでした。)

少しするとコスモ石油の千葉製油所で火災が発生とのニュース。
会社の人に連絡しようとするも、もちろん電話は繋がらずとりあえずメールを入れる。

その後に追って津波発生のニュース。
しかも津波は西に向かって追いかけてきている。
由比あたりはかなり緊張して走り、愛知に入る頃に津波に追い越されたようだった。
名古屋の実家に電話が繋がり、津波に注意してと伝える。

三重の自宅に着き、落ち着いてテレビを見て改めてとんでもない大災害であることを認識。
でもこの時点では単身赴任先の浦安が都心の被災地になっていることは知らなかった。


土曜日は前の仕事でお世話になった方の送別会などに参加して、何時も通りのペース生活していたのですが、翌日に職場の先輩で単身赴任先の同じ町内の先輩から「浦安は液状化で大変だよ。自分の家も傾いていて、町中どろだらけ。ライフラインも電気以外はすべて止まってます。」との連絡が入る。


一体、その状況で浦安に戻って、単身でどうやって生活すれば良いのか全くイメージもつかなかった。

会社の上司に相談すると、震災対応で色々と仕事もあるので月曜から出てきてほしいとの事。
ホテルを予約できたら帰ってきてとのことなので、当面の予約をして月曜の朝に車で帰京。

帰京途中でテレビを見ていると、福島原発が爆発。
「オレ、本当にこっちに向かって帰っていいのか?」と自問自答しながら、それでもお台場のオフィスを目指す。

会社に着くとエネルギー供給会社の本社にとっても経験したことがない未曾有の大災害。
社内も相当に混乱していて、普段は冷静なマネージメントや職場の人たちもいたるところでケンカ腰でやりあっている。
それでも、それまでには部署の垣根が高い大会社病ともいえる我社でも、こんな時には垣根なんてどこに行ったのかと思うぐらい部門間の垣根を越えて、とんでもないスピードで未経験の対応が進んでいき、少しずつではあるが被災地に大事なエネルギーを届けられるようになっていく。

そんな中、設備のメンテナンスが仕事の我が部署は、震災復興に直接的にかかわれる仕事はごくわずか。
僕もできる事を探しつつ、できることは被災状況と復旧状況の情報収集。
でもこの仕事ってやればやるほど、見れば見るほど辛い気持になっていく。

そんな中、ホテル住まいで週末はライフラインのないアパートに帰って、自転車練習なんて全くできるわけがない。
自転車は専ら非常事態の避難用のアイテムとして車に積んでいました。
なぜなら当時は都内でもガソリン入手が困難で、ガス欠した時に原発が爆発したらなんて真面目に心配してました。
そしたら自転車で自走で西に向けて避難するしかない、なんて思ってました。

東北で被災した方々に比べたら本当に大したことはない被災でしたが、それでも1ヶ月ほど自分の居所が無いというのは、やっぱり精神的にかなり疲れました。
帰るところがないっていうのはこんなに辛いことなのかと初めて知りました。

避難生活終盤はbean兄貴の家に泊めてもらい、最後の週末は一緒に三浦半島にも行けましたが、もちろんキャリア最弱ともいえるぐらいの弱りかたでした。


そんな経験もあり、やっぱり震災に対する思いは、今の四日市の職場の方に比べると少しだけ思いが強いのかも。
でも、いつかはここもあの時のようになるのかと思うと、今できることは何とかやっておきたいと思います。